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2006年 9月 21日(木曜日) 16:09 |
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「すべての文章にルビを」。 こどもの頃、雑誌の文章には漢字にかなが振ってあった。だから大人の雑誌がこどもにも読めた。村の県道沿いのまち並みにあって、農耕具も扱う金物雑貨店の店先に雑誌が置いてあった。「キング」だったり、「富士」だったり。 店が混雑するなんてことはなかったから、暇をもてあましたこどもが、店先の上り框や丸いすを占拠してもおこられることはなかった。雑誌を手にして頁をめくる。 挿絵に目が行く。憂いを帯びた女の顔。形のいい唇に目をひかれた。 頁をめくる。背の高い鋭い顔の男の姿が現れる。また、侍が伸びたさかやきを見せる。 講談、猟奇小説、探偵小説・恋愛小説。なんであれ、読み耽った。小学生なのに読んだ。読めたのだ。漢字にかなが振ってあったから、読み通すことができた。 小説というのは、何で男と女の話ばかりなんだ、と、こどものころはうめいた。 大人の話だ、こどもに分かるわけがない。怖い話は怖いとわかって怖かった。 怪奇小説を読んだ日の夜は、ひとりで小便に立つことができなかった。 明朗小説は心が和んだ。 興にまかせて筆が進むと話が長くなる。本筋から脱線する。すると、行を変えて冒頭に、 こう来る。“閑話休題”
 漢字のままでは読めないし意味が分からない。ルビが振ってある。「それはさておき」。 こうして本題に戻るのだ。 なるほど、と安心して読みつづける。 漢字を見て振りがなで読む、意味が分かる。こうして読むことが身についた、鍛えられ た、と思う。長じて漢字を書くことが多くなったとき、形を覚え、意味を感じとっていた から、書く、形にするという作業の面倒臭さを軽くしてくれたのではないかとも思う。 とにかく読むことの抵抗を少なくすることが肝心。漢字離れを防ぐにいい方法ではないか。 ルビがあってほしいと痛切に感じているのは、人名、そして地名。字典を引いても分からないことが多いからだ。 ところで、最近、偶然にもあの雑誌のことを目にした。早坂暁が“しんぶん”に今執筆 連載中の小説「花へんろ」に、昭和18年に入って“敵性語”の追放が行われ、野球用語の ストライクが“よし、一本”セーフは“よし”、アウトは“ひけ”と読み替えがはじまった ことを例に挙げたあと、こう書いている、『雑誌の代表格の「キング」は「富士」と改名している。』 あの雑誌は別々の雑誌ではなかったのだ。
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