ちょっと休憩
世間を騒がすニュースに不安をお持ちの方もおいでのことと思います。
偽装問題も含めて皆さんがお住まいのマンション建物で構造的不安のある方は
お気軽にご相談下さい。 ←ここをクリック
(建物の構造図・構造計算書などの図書が必要となります。)
目次
凝縮
雑感 若いのに歳をトッタナと思うとき
列車の待ち時間
路上歩行
遠い思い出
ゆきむし
安全と対策
「すべての文章にルビを」
できる人が達成感を味わう
ヒトも外断熱?
もうそろそろ
話題に困ったら
ジャの道はヘビ(蛇の道は蛇)
食べる もの
耐震偽装問題について
『 農 』・グリーンツーリズム
まだはもうなり、もうはまだなり
自然(じねん)観
始めの初め
■NEW!!凝縮(2008年11月14日)

数億年
数千年
数百年
数十年
数年
数日
数時間と
凝縮されると
一気に
時間を感じるが、
いま、
生きているとき
いま、
大切なときと
思うときの
時間は
あまり
感じないものだ。
でも時間の重みと
価値が増していくかのように
錯覚してしまう。
いい例が
自分や家族の写真を
眺めているときに
これまで生きてきた
ほんのわずか一筋の
流れが垣間見えたのに。
何故か・・・・・・・・・
フット何かを考えているうち
いまを大切にしたい
という
気持ちが高まって
きたのではないだろうか。
■NEW!!雑感 若いのに歳をトッタナと思うとき(2008年9月3日)
朝の食事を忘れたとき
食材の名前が直に口に出せないとき
食事をしながら食事のことが気になりだしたとき
その後、時間が経てばメニューすら思い出せないとき
小石に躓くとき
動きが鈍くなったとき
すばやく動きたいと思うが、金縛りのように動けないとき
物忘れをし、そのものを忘れてしまうとき
人と会ったときに誰か思い出せないとき
その日のスケジュールが思い出させないとき
漢字が思い出せないとき
しわ・しみ・たるみが出てきたかな、と思うとき
無理をしないでネ、と声を掛けられたとき
よいしょ・こらしょ・どっこいしょ と自然に掛け声をかけているとき
ちなみによいしょは 50代 こらしょは 60代 どっこいしょとなったら70代、と謂われるが、
自分はどうも最後の掛け声を日常的に発しているようだ。
翌々日に筋肉が痛むとき
ゴルフの飛距離が落ちたとき
歩きながら呟きが多くなったとき
年金や病院が気になりだしたとき
気が短くなったナ〜と自分で思うとき
両親の死亡したときが気になりだしたとき
映画を見ているのに俳優の名前が思い出せないとき
音楽を聴いているとき誰が歌っているのか名前が出てこないとき
地図が読めなくなったとき
方向音痴に近づいたな〜と思うとき
若い人の会話が意味不明になったとき
勘が鈍くなってきたとき
老眼になってきたと気付いたとき
妙に怒りっぽくなってきたとき
身も心もボロボロになったとしても、せめてココロの豊かさは、失いたくないものだ。
そのような人生を送りたいものだ。と思いつつ何を思っていたのか思い出させないとき
甘いものを好み、お茶がおいしさを感じたとき
ちょっとした運動した後、茶碗をもつ手が震えるとき
若い子をうらやましく、ほほえましく思うとき
昨日のことは忘れても10年前のことは思い出すとき
でも誰のことを話しているのか不明になるとき
昔のことは鮮明なのに、つい昨日や一昨日のことが思い出せないとき
くどさが増してきたとき
身軽さを失ってきたとき
愚痴っぽくなってきたとき
何よりも強欲さがでてきたとき
同級生が他界したとき
自分に気が合わなければ何もしたくなくなるとき
考えたことと口に出すことと行動にズレが生じてきたとき
あまりにも難しいことを要求すると即座に断るとき
欲はどこまでも深く、先がない割には持てるものはみな持ちたがるとき
このような現象が増えてくるとき
何故か現象を減らす努力はしたくなるとき
無理・無駄・無茶は最大の敵と思うようになったとき
お金を使うとき妙に残すことを考えてしまうとき
ご馳走になることは平気だが、ご馳走することは気が重いとき
朝、「わが息子、小便までの命かな」と痛切に思うとき
■NEW!!列車の待ち時間(2008年5月16日)
列車に乗るには時間が有り過ぎるし、遠くに行くほど時間はなく、一杯やるには陽が高く、このような時の定番でパチンコ屋に入ることにした。パチンコは久しぶりだったので2,000円で玉を借り台に向かって打ったが1分も持たず、あっという間に終わってしまった。仕方なく外へ出て時計を見たがほとんど先ほどの時間と同じ感じがして仕方なかった。腕が悪いのか、台が悪いのか、機械がそうなっているのか判らないがいつからパチンコ屋で暇つぶしが出来なくなったのか、ふと同時に昔のことが蘇った。
今から40年近くも前のこと。スマートボールだかラッキーボールだとかいったゲームである。100円(50円だったか記憶がない。)で20コ程度の玉を受け取り、水平より少し傾斜した台で玉を打ちタテ、ヨコ、斜めに玉が並ぶと玉をたくさんもらえるゲームである。今でいうビンゴゲームに似てはいるが、リーチなどとは言わなかった。
パチンコ同様のゲームなので結局は店側の勝ちに終わることになるのだが、仕組みが少し違っていた。客が負けて終わりにすると500円バックしてくれるのである。1,000円負けると500円返してくれる。こんな仕組みであったのである。だから300円、500円と負けると後は1,000円まで楽しませてくれて、あわよくば景品を取ることが出来る。当時から座ってゲームは出来るし、時間も倍に遊べる仕組みでのんびりと時間は過ぎていったのである。
休憩と暇つぶしに失敗してしまうと時間を持て余し、何をしていいものか分からず、ただ疲れて時間が来るのを待つのみである。
昔の方が良いとは言いません。
せめてパチンコ屋さん!払った金の分だけでも椅子に座らせてください。
■NEW!!路上歩行(2008年4月11日)
昼めしを食べに行かないかと誘われた。少し歩くけどいいかと聞かれた。それはかまいません、なるべく歩くことにしていますから。そうですか、私も歩くことにしている。散歩は欠かさずやっている。雨が降っても出かける。そうしないと気持ちがおさまらない、忘れ物をしたような気がする。歩くことは年取ったわれわれにとってだいじな健康法のひとつだ。いつも気にしていることだから話題になりやすい。
誰でも歩く。毎日歩く。うちを出てバスの停留所まで歩く。バスを降りて歩く。会社へ行く。駅へ行く。地下鉄に乗る。階段を昇る降る。健康のためになるからと言い聞かせて歩くわけではないが、健康にいいのは確かだ。靴が減るぐらいで金のかからないのもいい。道具は使わないから場所をとらない、というより無限にあるのが強みだ。通勤、買い物など、用達しながら歩くのがいいと思っている。歩くためだけに時間をとることはしないというわけ。しかし、散歩というのは別。これは気分をよくする。
室内で歩くまねをする。外に出る代わりになるかと思ってやってみた。同じ場所で足踏みをする。だが
5分もしないうちに嫌になる。ちょっと歩いてみる。狭い部屋だ、行ったり来たりでよけい味気ない。外を歩くのは15分でも、20分でも苦にならないのに。行き先があってそこに到達するという達成感が室内足踏みにはないからだろう。
路上をあるいていて思いついたことがある。舗道ブロックを物差しにして歩幅を測る。一定の歩幅で横断歩道を渡りながら歩数を数える。ちょっと計算すると道幅が分かるという寸法だ。この手を使って(この足を使って?)日本地図をこしらえた人がいる。ああ、あの地図のこと。いや、いのぅ地図のことだ。
階段を歩くときは段を数える。高さが分かる。地下鉄の階段は51段。斜路につながっているからその分を足すと地下道の床はおよそ
8メートル下にあると分かる。歩道橋は 6メートルの高さか、などと納得する。
定位置で行う運動もやる。まずラジオ体操。そのほかには、膝の曲げ伸ばし運動がある。膝を曲げて腰をおとす。重量挙げ選手がバーを掴みに行くときの姿勢だ。膝を曲げる伸ばすことを繰り返す。これは効果てき面、膝が軽くなったと実感する。足取りが軽くなる。もう一つある。両脚を左右に大きく開き両手を組んで頭の後ろにあてがう。上体を真っ直ぐにしたまま腰を鎮める。腿が床と水平になるまで落とす、上体を伸ばす。この繰り返しが腰に効くという。いずれも確かな歩きを支えてくれるから欠かせない。
■NEW!!遠い思い出(2008年3月14日)

私が小学生の時代、自然の中で、昆虫採取などで遊び回っていた。今でも心に残る興奮した思い出が二度ある。一度目は、仙台市北部の台原付近の原っぱで 殿様バッタを採取したときです。飛んで逃げ回るバッタを追いかける姿がついこの前のように思い起こします。また二度目は、小田原田んぼのあぜ道を流れる小さな用水堀で“タガメ” を採取したときです。今では“タガメ”を目にすることなんて体験できないことでしょう。当時はまだそのような生物がその辺の川、沼で生息していたのです。
その当時、晩秋ともなると空一面に“あきあかね”(通称赤とんぼ)が群れをなして森の方へ飛んでいくのを目にしたり、夏は、田んぼで蛍を捕まえて夜、蚊帳の中に放し遊んだ覚えが、ついこのまえのように思い起こされます。 ところが今日都市も、田舎も関係なく形態はすっかりと様変わりしてしまい、自然がどんどん郊外に追いやられ環境が一変してしまいました。現代の子供達は、私が経験したような興奮を体験しているのでしょうか。地球温暖化とか、都市環境汚染とか騒がれ、私らが経験した自然との感動を、現代の子供達に伝承させられないものかな〜と思うこの頃です。
■ゆきむし(2007年1月29日)
去年11月のある日、しばらくぶりで“ゆきむし”に出会った。大変懐かしく、しばしの時間、目で追っていた。
“ゆきむし”は、初雪の降る風のない暖かい日に現れる、アブラ虫科の白腺物質を分泌する腺が存在する虫の俗称で、体全体が綿でつつまれた虫をいい、たぶん30〜40年ぶりに出会ったような気がする。
この頃は、身の回りの環境もすっかり昔とは変わり、何処からとんできたのか分からないが、かなり珍しいことではないか、と思った。
なにか幼い昔に戻ったような気がし、懐かしい幼き日々を彷彿とさせられる日であった。またこの“ゆきむし”に出会うのは、いつのことやら。
ゆきんぽ ゆきんぽ 飛んでこい 冷たい冬を よんでこい 冬将軍をつれてこい。
読み人知らず
■安全と対策(2007年1月29日)
昔、馬喰は馬を曳いて橋を渡る時、必ず橋桁のあるところを曳いて歩いたという。
万が一、床板が弱くて踏み抜いても、下の桁で止まるので川まで墜落することはない。
現在のとび職は足場を組み上げるとき、使用する材料は手順通り上げてもらい、余分なものは絶対に足元に置かない。つまずいて墜落したり材料が落下することはない。使用する工具もベルトからラセンの紐で繋いであり、落とすことはない。高所では腰に着けている安全帯(命綱)を先に張ってある親綱に引っ掛けるようにしており、墜落防止の処置を講じている。 このように一見豪放に見える職業の人でも、細心の注意を払い、更に次善の策を考えている。
昨年のバクダン低気圧の際の、女川湾のサンマ漁船の座礁事故は気の毒だった。近くの安全な気仙沼港に入らず、値段の良い女川に入りたい、自分たちはプロだ(プライド)、この位の嵐は大丈夫だと考えてのことと思う。しかし大切な命を亡くし、船を亡くしてしまった。 安全な港に避難し、場合によっては積荷(サンマ)も棄てる、勇気を持ってほしかった。
私達の周りにも危険は一杯ある。交通事故、犯罪、暴風、豪雨、火事、地震等だ。宮城県沖地震は約37年周期で必ず来るという。日頃の準備は大丈夫か?
我が家も改修時に基礎をベタ基礎にし、家具や重いものは転倒防止のマットを付けた。しかし昭和53年の地震前に建てた旧耐震の建物で、居間が梁の架け方を無理しているため、補強が出来ないでいる。家内と地震になったらこの部屋から逃げよう、と打ち合わせをしていた。ところが一昨年8月16日の地震の際、遊びに来ていた3歳の孫が、一番安全な庭の木の下で遊んでいたのに、びっくりして居間に駆け込もうとして、あわてて引き止めるという一幕もあった。自分達だけでなく、来客や近所の人も含めた日頃の対策が大切と痛感させられた。
外を歩いている時に地震がきたらどうするか、新しい丈夫そうな建物に逃げ込むのがよいか、しかし1階の壁の少ない駐車場の様な建物は弱い、公共建物は強い等、日頃から考えておかなければ、と思っている。
マンション等でも古い建物は、先行投資してでも早く耐震補強をするべきだ。復旧費より補強費の投資は安くつく。 “備えあれば憂いなし”今からでも対策を考えよう。
■(2006年9月21日)

「すべての文章にルビを」。
こどもの頃、雑誌の文章には漢字にかなが振ってあった。だから大人の雑誌がこどもにも読めた。村の県道沿いのまち並みにあって、農耕具も扱う金物雑貨店の店先に雑誌が置いてあった。「キング」だったり、「富士」だったり。
店が混雑するなんてことはなかったから、暇をもてあましたこどもが、店先の上り框や丸いすを占拠してもおこられることはなかった。雑誌を手にして頁をめくる。
挿絵に目が行く。憂いを帯びた女の顔。形のいい唇に目をひかれた。
頁をめくる。背の高い鋭い顔の男の姿が現れる。また、侍が伸びたさかやきを見せる。
講談、猟奇小説、探偵小説・恋愛小説。なんであれ、読み耽った。小学生なのに読んだ。読めたのだ。漢字にかなが振ってあったから、読み通すことができた。
小説というのは、何で男と女の話ばかりなんだ、と、こどものころはうめいた。
大人の話だ、こどもに分かるわけがない。怖い話は怖いとわかって怖かった。
怪奇小説を読んだ日の夜は、ひとりで小便に立つことができなかった。
明朗小説は心が和んだ。
興にまかせて筆が進むと話が長くなる。本筋から脱線する。すると、行を変えて冒頭に、
こう来る。“閑話休題”

漢字のままでは読めないし意味が分からない。ルビが振ってある。「それはさておき」。
こうして本題に戻るのだ。 なるほど、と安心して読みつづける。
漢字を見て振りがなで読む、意味が分かる。こうして読むことが身についた、鍛えられ
た、と思う。長じて漢字を書くことが多くなったとき、形を覚え、意味を感じとっていた
から、書く、形にするという作業の面倒臭さを軽くしてくれたのではないかとも思う。
とにかく読むことの抵抗を少なくすることが肝心。漢字離れを防ぐにいい方法ではないか。
ルビがあってほしいと痛切に感じているのは、人名、そして地名。字典を引いても分からないことが多いからだ。
ところで、最近、偶然にもあの雑誌のことを目にした。早坂暁が“しんぶん”に今執筆
連載中の小説「花へんろ」に、昭和18年に入って“敵性語”の追放が行われ、野球用語の
ストライクが“よし、一本”セーフは“よし”、アウトは“ひけ”と読み替えがはじまった
ことを例に挙げたあと、こう書いている、『雑誌の代表格の「キング」は「富士」と改名している。』 あの雑誌は別々の雑誌ではなかったのだ。
■できる人が達成感を味わう
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本当に
「できる人」は、
収入や肩書き、
企業ブランドでは
動かないものだ。
いい仕事をしたい、
もっと自分を成長させたい、
と思っている。
だから、「できる人」だ。
ただ、最近
キャリアの人、
責任ある立場の人
が、
マネジメントすることとか
総合力とか
解決力とかを
どこかに
置き忘れているようだ。
社会現象なのだろうか。
話は変わり、
ひと昔まえは、
転職が広がりすぎ、
年収が少ないとか
上司が気に入らない
といって
数年で転職する人がいたが、
まだできることがあったはず。
それをやり尽くさない人が、
次の会社でうまくいくだろうか。
と
誰かが言っていた。
どんな職業でも、
ボランティアであっても
通じると思いませんか?
と書きながら自戒している。
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■ヒトも外断熱?
目下、玄米・野菜食を励行している。
ツバがよくでる。食間にも出る。
よだれを垂らすほどにはならないが、湧き出るという感じだ。
出たツバは飲みこむ。胸やけを抑える効果があるらしい。
こどものころから胸やけに悩まされた身にはありがたい。
玄米は腹もちがいいと聞かされていたが、あれはどうもウソのようだ。
腹が減ってたまらない。これをなだめるのに苦労する。
このあいだ、用達しの帰りに“かけそば”をおごってなだめた。
そのあと夕食が待っているというのに。
消化がいいと実感する。
・・・ちょっと尾篭な表現は許したもう。・・・
栄養を吸収した後の残滓は出すと小山をなす。
出したあとのアナはすずしい。しばらくすずやかでいられる。
こんな思いははじめてだ。フン切れがいいといった人がいるが、この言葉あてはまる。
前は脇腹の皮をつまむと数センチの厚さがあった。いまは数ミリしかない。
丸っこい腹はしぼんでいる。皮がたるんでシワシワだ。
ひっぱり出しては“まるで雑巾だ”と、ツブヤク。
この冬は去年より寒いと感じた。冷気に触れると鼻水が出る。そのたびに出る。
皮下脂肪を失ったせいだろうと思う。セーターを重ね着した。
内断熱がだめになったので外断熱にしたわけだ。
体重が減った。身が軽くなったので歩きやすい。階段のぼるも苦にならない。
歩け歩けが楽しめる。長生きするためにというより、健康に生きようと心掛ける。
我が身の動きに、人の手をかりず道具に頼らず薬の用がなければ、安上がりというものだ。外断熱材の分だけ加算すればすむ。
■もうそろそろら
もう、そろそろ
札幌−羽田間航空チケット9,000円!
スカイマークエアラインズの9,500円に対抗してエア・ドゥが発売する。
いつまで低価格競争一辺倒の経営方針を続けるのだろうか。
限度を越え続ければ、歪みが生じるのは必然。
現場のほころびは連日のニュースで伝えられている通り。
現場のほころびは、管理部門のほころびがもたらす。
管理部門のほころびは、経営思想のゆがみがもたらす。
航空業界のみならず輸送業界、不動産業、建設業、小売業・・・・・・・・
日本のあらゆる分野で価値よりも、売上が経営思想の根幹をなしているようだ。
しかし、・・・・・・市場を形成しているのは誰?
消費者である。
消費者の価値観そのものが、今のこの経営思想の土壌である。
限度を越え続ければ・・・・・・もう充分過ぎる位、検証したではないか。
もう、そろそろ、
「良価は悪価に駆逐されない」兆しが芽生えてもよいのではないだろうか。
■話題に困ったらNEW!!(2006年3月3日)

キ・ド・ニ・タ・テ・カ・ケ・セ・シ・衣食住から選べばいい、という。
だが、どうもオタク族のわたしにも困ったものだ。
すべてが次のようだ。
キ(季節)は、季節感に嵩じることもなく、季節に目をやることもあまりない。
ド(道路)は、ときたま雪や大雨が降ると道は混む。でも年に数回のことなのですぐ忘れてしまう。
ニ(ニュース)は、政治や一般社会面は、相当暇を持て余すときだけで一貫性がないことに興味がない。
タ(旅)は、オタクは旅が苦痛の伴うときさえあり、出張時も観光巡りさえしない。
テ(天気)は、自然のことだからと、なりゆきに任せている。
カ(家庭)は、家に庭が付いている戸建てのこと? ともすれば庭のないマンションの住民は?と素朴な疑問をもつ程度。
ケ(健康)は、いたって不健康とお思いでしょうが、残念ながら普通中の普通。
セ(セックス)は、年も年であまり興味もないし、何せ節操がある。
シ(趣味)は、日がな一日コーヒーをススリながら本が読め、ゴロゴロできれば至福のときなり。
衣は、人並みの服装で、
食は、適当にタシナミ、
住は、借金のカタマリみたいな建物に住む。
話題の少ないというのか殆どないに等しい生活と人生ですが、仕事だけはちょっとしたコダワリとシツコサがあるのです。
どうもお里が知れるような話ですが、これは私ではありませんヨ。
何人かの話を簡潔にして短文化したもので、「アッ!そうかっ」と納得していただき、これ以上の詮索と邪推はいけませんヨ。
スイマセン。
■ジャの道はヘビ(蛇の道は蛇)
あけましておめでとうございます。
「ちょっと休憩」が初めての新年を迎えました。立寄っていただいている皆様に深く感謝申し上げます。今年は更にバージョンアップを目指し、内容的にも面白さや意外さ、ホ〜ッとし、エ〜ッと感嘆を挙げていただけそうなことも掲載できればと、欲張りにも考えております。乞うご期待ください。
また、昨年の耐震補強偽装問題には、皆様はじめ建築・不動産業界に衝撃が走り、信用失墜ということに発展したのかと一抹の不安もありますが、私たちは安心・安全への提案を含めて皆様の財産保全をソフトなアタマで対処してまいります。今年もお読みいただければ幸甚の至りです。
● ジャの道はヘビ(蛇の道は蛇)※1
大蛇の通る道は、蛇ならばおおよそ見当がつく。つまり同類の仲間のことは、その道の者にはすぐわかるという諺だ。また、同類のもののする事柄は同類のものには容易に推知できること。というのはこれまでの世間あるいは社会であったと、思う。
それが昨年、社会的風潮として専門家が理解不能あるいは予測とか表現ができ難い状況・状態が発生しているように見受けられる。機器に頼り、データと称する数字や文章が緻密になり、専門家の直観(感)力は失われた(ようだ)。
さて掲題の話に戻すと、同じ字を書いても上のほうは「じゃ」、下のほうは「へび」と読む。蛇(じゃ)は大蛇で、蛇より大きいものにいう。ほかに「おろち」「蟒(うわばみ)」などという語もあるが、これも大蛇だ。「へび」は、もと「へみ」と言ったらしく、上代の文献にこの形が見える。
蛇を題材にした話は多く、妙に納得し、感心し、躍動感がある。反面、気味が悪く、恐ろしく、嫌味もある。代表的な話は、旧約聖書でアダムとイブに善悪を教えたヘビ、古事記で出雲近くのヤマタノオロチと死闘を演じるスサノオノミコトが、オロチが飲み込んでいた名器を得ることになる(この闘いで、三種の神器である一つ草薙の剣:旧くは十拳の剣である)。
神を知ることになった人、アダムとイブは神に対して人類初めてのウソをつき、ヘビへ責任転嫁し(何かの事件に類似している)、後者は今でも続く天皇家の神器となる(伝統を重んじてきた一族は、いま存続と維持に瀕している)。
はたして、マンションの皆様が接するマンション管理士、管理会社の従業員、関連する方々古今東西ではヘビにまつわる話が、たくさんあるようだ。
でも相当な結果の違いが出てくることは間違いがないようで、当然ともいえる。
同じ譬えなら、“餅は餅屋”(※2)のほうが妙を得たものであろうか?
何事も催促されると“紺屋のあさって” (※3)といい、詰め寄られると“紺屋の地震”
(※4)と言い訳をし、いつも“紺屋の白バカマ” (※5)のタトエ通りの忙しさを装うようでは、本当の専門家はいるのだろうかと、嘆くことなく、あきらめず一度ご相談ください。MCAに!
<参考:広辞苑第三版より>
※1:蛇(じゃ)と蛇(へび)
トカゲ目ヘビ亜目の爬虫類の総称。身体は円筒形で細長く、小鱗で瓦上に覆われ、肢と肢帯がない。舌は細長く、先端は二分。小動物や鳥の卵を食う。不吉なものとして嫌われる。
前者は、大きなへび・うわばみ・おろち。後者は、シマヘビ・ヤマガシ・アオダイショウ・マムシなど名称がついている。古くはくちなわ・ながむし・かがちと地方によって総称があった。
※2:物事にはそれぞれの専門がいる
※3:仕事が天候に左右されるので、仕上げが遅れがちとなり、客の催促に何時も明後日といい抜けてあてにならないこと
※4:藍澄まぬことから相済まぬ、申し訳ないの洒落
※5:他人の為にばかり忙しくて、自分のことをする暇がないこと
■食べる ものNEW!!(2005年12月12日)
トシのせいか小食になった。
昼と晩は外食にたよっている。
外食で困るのは、量が多いこと、野菜が少ないことである。
自前で調理しようと、野菜を買った。
安く買えることに気が付いた。
面倒なことはしないで、動物にならって生で食べればよいのだが、
さっと、熱湯をくぐらせることにした。
(芋は別。煮ないと食えない・・・)
高温加熱すると、消化を助ける働きをする酵素を
殺すことになると知ったことによる。
高温といえば、牛乳パックの表示を見て驚いた。
「殺菌130℃ 2秒間」
水の沸点をはるかに超える。
超高温短時間殺菌法といって、低温殺菌法の対極にある。
牛乳に含まれる酵素は完全に死滅するそうだ。
不消化物を食していることになる。
数ヶ月前の新聞に 「この殺菌法を見直す」 とあった。
見直すといえば、ヨーグルト。
「腸まで届く乳酸菌」をうたったものが現れた。
そういえば、胃には強酸が待機している。
乳酸菌も死ぬはずだ。
そんなこんなで、食生活の見直しをしているところである。
ところで、果物はたいていなまで食べる。
賞味期限なんていってないで、獲れたてがよいといって食べている。
そういえば、
あの猿、もぎたてを食べていたな。
この間テレビで見た。
■耐震偽装問題についてNEW!!(2005年11月29日)
「青天霹靂と怒り」
いま、あってはならない耐震偽装問題が発覚し、マンション住民に強い不安感などを与え、一方で関係者は対策として必要書類の見直しなどに追われている。技術者が安全や法を無視とか偽装したなら一般生活者は、何を、誰を、どのように信用したらよいのか分からなくなる。最低の職能倫理が働くことによりプライドは生まれる。
マスコミやメディアを通じて知る範囲では、住民を無視したような関係者の言動にはあきれ返るばかり。まず誰を救済しなければならかという気配が感じられないのは私だけだろうか?
併せて被害者を除く関係者がそれぞれを罵り合う姿には、業界の一員として憤懣やるかたない気分が充満してしまう。
何故、自分達の役割を認識し、一致団結のうえ優先順位を持って行動しようとする意識が欠落してしまうのか(この場合のリーダーとなるべき販売会社は、責任と矛先を転嫁しようと奔走しているようにも伺えてしまう:さしたる意味はない、ともいえるが)。
何故このようなことが起きてしまったのか。未然に防ぐことができなかったのか。そのことはきっちりと解明し今後の体制等の確立に役立てることも大事であろう。
この問題が発覚するまでに時間はあったのであろう。その間にどのような対応・対策が必要であったのか真剣に話合ったのであろうか。
どうもそれぞれの身の保全あるいは責任所在を追及することに汲々としてかのように見えるし、発覚後であっても事実そのようだ。
マスコミに出演してまで自己弁護と責任転嫁している口汚さと見え過ぎた魂胆にはあきれ返るばかりである。
私たちは評論家でもなく批判者でもなく、建築実務者として建築に真剣に取組んでいる集団です。
今回の事件を通して不安を感じているマンション住民の方皆様に、“MCA”では下記のように対応することとなりました。
記
1.書類(竣工図、構造計算書)精査・・・・・・7万円
ただし、上記の書類がない場合は応じることができません。
2.条件
@仙台市内とさせて頂きます。
A申し込みは管理組合理事長名でお願いいたします。
Bできる限り当日回答いたしますが、場合によっては書類一式をお借りし後日回答ということもあります。
C基本的に現場調査までは行いません。
D今回の書類審査は耐震診断と区別して考え下さい。
※今回の問題をきっかけに建物の品質や施工性を確認したいときは、耐震性能の一つとして計器測定も行います(この場合であっても書類は必要です)。
上記費用は異なることがありますので現地確認とヒアリングを通じて見積りを提出したうえで調査診断を行うことになります。
(現地確認及びヒアリングの費用は8,000円/時間を目安にお考えください)
■『 農 』・グリーンツーリズムNEW!!
最近2回続けて『農』に関する講演を聴く機会がありました。講演者の先生は「農業」とはいわず『農』という捉え方をしておられた。つまり生業としての農業としてではなく「農のもつ多面的価値」をみなければならないというものでした。
また、私は今までグリーンツーリズムとは、観光の新しいスタイルで「農村地域滞在型観光」「農業体験型観光」「農村地域周遊型観光」というように考えていました。先進地である英国の人々の生活や旅行、生きざまのお話を伺いますと、これらはグリーンツーリズムのほんの一端であるということがわかります。
グリーンツーリズムとは「農的空間、農的環境、農的人間関係の中へ人々が体験・味わいを求めて入り込んでいくこと」で、「旅行者にとって能動的かつその環境とのやり取りができるもの」と捉えることができます。観光のように一方的、受身的ではないのです。
これを受け入れる農的環境は、自然に対して人間が長い年月をかけ働きかけて作り上げた、見事に調和して美しいご自慢の景観であり、そこに住む人々の農的暮らしです。法的規制が特にあるわけでもないのに建物の統一感がたもたれ、客引きの大きな看板はありません。それでいてレストラン、民宿などの経営が十分成り立っています。
私はグリーンツーリズムの一環ということで木造のコテージを設計依頼されたことがあり、今も建っていますが、グリーンツーリズムをよく理解しないまま設計してしまったことに赤面の思いです。
(;^_^)
これからの農的空間と生活を考えたとき、単なるビジネスにとどまらないグリーンツーリズムの奥行きの深さを考えさせられた講演会でした。
■まだはもうなり、もうはまだなり(2005年10月17日)
まだはもうなり、もうはまだなり
みごとなばかりの言葉
まだまだ早い、
と思っていると、
もうそのときになっている。
逆に、
もう良かろう、
と思って手を打つと
実は、
尚早である。
人間はどうしても
早まりがちであるから、
じっと待つ心、
ゆとりが必要だが、
そうかといって、
満を持して放たずにいれば、
チャンスを逃してしまう。
その間の機微を
端的に表現したものである。
それではいったい、
いつならいいのか、
わからないではないか、
などというのは野暮ではないだろうか?
と目を通して理解はできる。
でも、
自分たちの住まいのことについては、
よく分からない、
誰かやってくれるのでは、
自分は素人だもの、
と嘆いていませんか?
ツブヤキ:わからないときの“MCA”頼み
■自然(じねん)観(2005年9月20日)
江戸時代以前、日本人には今でもいう「自然(シゼン)観」はなかった。天然物も自分も全部まとめたものは、「自然(じねん)」である、という概念であった。自分が入っていない「シゼン」という言葉が定着したのは、明治以降で「ネイチャー」という英語の訳にあててからである。
「自然(じねん)」の概念を無理やり変革して「自然(シゼン)」にしたもの。しかし、日本人に心の底には今でも「じねん観」は残っているのではないだろうか。
いま、環境問題が叫ばれて「持続可能な発展」がやっと考えられるようになってきている。「循環型社会をめざそう」というかけ声とともに。
もし本気なら、かって歴史の中で培った日本人的自然とのつきあい方、すなわち「じねん観」に基づいた自然への接し方をここでもう一度磨きなおそうではないか。人間の生活の基盤は衣食住であり、それを得るとき、自然環境を壊さず、常に自然に感謝するというのが「じねん(自然)観」である。
■始めの初め (2005年9月3日)
当たり前ですが、“チョット”はわずかとか少しとか、“キュウケイ”は一時休むことで、続けて読めば「少し休む」ことになります。
忙しく、走り続ける今日「キュウケイ」という言葉が忘れられ、それより“遊び”などの権利は主張するという時代です。その中でも仕事がタクサンあることや努力を重ねていることは美徳(?)とされています。
でもネ、皆さん、ご自分の仕事以外に理事会もこなし、挙句はインターネットで私どものHPに立ち寄って勉強することは、じつに大変なことです。
ご苦労をお察し致します。
そう言いながら、HPを開き、「ちょっと休憩」を読んで頂いていることに感謝します。
これから定期的に、マンションのことや世のなかのこと、新古・軽重・寒暖・時節・楽しいこと苦しいことなどマメに書き込んでいきますので、乞うご期待していただき、さらにご意見など遠慮なく投稿してください。
必ずご返事いたします。よろしく、と頭は下げつつ両手は床に、口上はこの程度として 「この欄」をハジメます。 |